ただただ苦しくて呻いていた。あつい、と渇きを訴えようとしたのに、喉を震わせることさえできない。指さえ動かない。まるで全身につながる神経を全部引っ込抜かれて、脳みそだけ皮膚のなかに置き去りにされたようだった。もういやだとクラウドは叫びたかった。
クラウドは泣かない子供だった。ほらそこにいるみたいな。少し離れたところに子供が立っていた。あれ、あれだ、と思って意識を向けると、めちゃくちゃに切られた神経が接続先を求めて手を伸ばした。
……あれは?と誰かの声が聞こえる。自分、とクラウドはそれに答える。答えるのと認識は同時だった。認識した瞬間、指先まで神経がつながった。
左手の中に堅い感触があって、ぎこちなく眼球を動かせば見覚えのある拙い木彫りのチョコボ。
親になにか欲しいとせがんだこともない。いつもぼろぼろの着せられたままの服で塗装の剥げた木のおもちゃを掴んで、広い部屋の中、真っ黒で年季の入った太い梁を見上げていた。母親はクラウドを育てるために稼ぎに出ていた。夜はいつも一人だった。寂しくないの?初めてクラウドは声の方を見た。ゆらゆら影が揺れている。全然、とクラウドは興味を失って首を振った。寂しいとも、わがままが言いたいとも思ったことがない。諦めだった。泣いたところで事態は好転しない。鬱陶しがられて嫌われるだけだ。
えらいのね、と影がいう。いいや、とクラウドは否定した。泣けるときに泣かなかったからこのザマだ。泣け、いまがそのときだとクラウドの脳が指令を出す。
泣いちゃうの?泣いちゃうの?声が段々大きくなる。泣いちゃだめよ、泣いちゃだめ。声は大きくなって、影はだんだん塊になる。
泣け、泣いちゃダメ、泣け、だめ、動け、掴め、縋れ、やめなさい、やめなさいクラウド。
縋れ!
くすんだ綿のワンピースが翻り、指に触れる。クラウド。困った顔の女がその手をそっと剥がして言った。見たことのない女だった。
ぷちぷちぷち、と弾ける音が身体の中から響いてくる。せっかく繋がった線が切られていく。
だめよママを困らせないでママは今からお出かけしなきゃいけないのよ明日の朝には帰ってくるわいいこいいこねクラウドお願いママを困らせないで……


夢見は最悪だった。それでも所詮夢は夢、瞼越しに太陽の光を知覚した瞬間、倦怠感だけを身体に残して眠気と一緒にはかなく消えた。窓から射し込む夏の日差しは朝といえども鋭く強く、クラウドのむき出しの頬を刺す。
クラウドの第一声はあちぃ、というなんとも間抜けなもので、しかも寝起きでカラカラに渇いてへばりついた喉からはしゃがれた声しか出なかった。代わりに背中までぐっしょりと汗で濡れている。
夢の内容なぞさらさら出てこないが、とても嫌な夢を見た、ということは覚えている。内容まで覚えていたらトラウマにでもなっただろうか。
隣を見れば野性味溢れる恋人が素っ裸でおおいびきをかいていた。自分の苦しみなんてどこ吹く風、確かに他人の夢の中までザックスの知ったこっちゃないのだろうが、まさに幸せそのものといった寝顔に、理不尽さを感じて一発くれてやりたくなる。だがそれをしてしまっては完全な八つ当り。自分を律し拳を下ろしたクラウドだったが、ふと視線を下に移して、その理性も吹き飛んだ。
「おまえの足が重いんじゃねぇか!しかも暑いし!」
恋人としての作法か、このクソ暑い季節にご丁寧に足をしっかり絡めていたザックスを身体ごと蹴りあげる。寝呆けたままのザックスは、ベッドから落ちて文字通りつぶれた。なんとも形容しがたい、言うなれば内臓の空気が無理やり押し出されたような音がしたが、クラウドは容赦ない。どうせすぐ復活する、とたかをくくって見ていたら、案の定ザックスはすぐさまむくりと起き上がった。
ほら、とそれを見届けてベッドから立ち上がる。
「クラウド!?」
恋人の無体な行為に、さすがのザックスも非難の声をあげたものの、既に立ち上がってシャワー室に向かっていたクラウドには届かなかった。


「おまえ、暑いのによく引っ付いて寝れんなぁ……」
「だって俺、クラウドのこと好きだしなぁ」
「言ってろバカ」
器用にもハートの形に整えられたスクランブルエッグを、クラウドは無感動にぐちゃぐちゃフォークで掻き混ぜながら悪態を吐く。
朝からよくこんな手の込んだこと出来るなぁと感心したのも最初の3日だけ。人間慣れとは怖いもので、すっかり愛された生活に浸っているクラウドは、時節柄その愛より暑さに参っている。
「空調、新しいの買いにいこうか」
ちらりとクラウドの視線が上に向く。壁についたまま、鉄屑になってしまった空調機。壊れちゃったけどまぁいっか、で放置して早数か月、まだその頃は春の陽気も麗らかだったから、至って暢気なもんだった。
だがすでに季節は夏。
南国生まれのザックスはいざ知らず、さすがのクラウドもこの暑さには限界を感じはじめている。くっついて寝るから尚の事。
今朝の悪夢の原因は、本気でこの暑さだと、クラウドは真剣に考えている。
「さすが天下のソルジャーさまはリッチだな」
「クーラーなかったらおまえと一緒に寝ないからな」
茶化すザックスを一にらみして黙らせて、冷たいミルクに口を付ける。そうと決まれば善は急げ、事態は一刻を要する。カレンダーに視線を走らせる。明日は非番だ。明日でいいか?
いや、今日買いにいこう、とクラウドの決断は早かった。
冗談でもなんでもなく、空調機を新調しなければ、本気で寝室を分けざるを得ない事態になる。とはいえ、一人寝も辞さない…のはクラウドだけで、どうせザックスは一緒に寝たいとごねるのだから(そしてどうせそれに押し切られてしまうのだから)、手を打たなければ甚大な被害を被るのはクラウドだ。
特に明日はクラウドが休み…とくれば、ザックスがどう出てくるか、大体想像はつく。夜やることは一つだ。
今日何時にあがれるかなぁ、と頭の中でスケジュール帳を繰る。
幸いにも近頃平和だ。ソルジャーと言えど、戦争がなければただの人、神羅に勤めるサラリーマン。むしろ事務仕事ができないくせに給料と肩書きとプライドばっかり高い奴が多いと、煙たがられている。らしい。これはクラウドを一方的に気に入っている事務のおばちゃんが、お菓子を持って来たついでに聞いてもないのに教えてくれた話。
俺もソルジャーなんだけどなぁ、と苦笑しながら、さもありなんと思われた。だって自分がそうだから。
テロもないしなぁ、と些か平和ぼけ様子でハムを食べるクラウドを見るザックスの目も優しい。
「ザックスは?何でも屋の仕事は早く終わりそう?」
「んー…そうだなぁ…夕方には終わると思ってるんだけど」
わかんねぇなぁ、と頭を掻く。自由業は大変だなぁと笑うと、楽しいぜと返された。
本当に自由な奴、とクラウドは感心する。何でも屋、なんて本当に何をしているか知らないが、この恋人はどうやってか食い扶持稼いで、いつも楽しそうに笑っている。
「いつかおまえともさぁ、できたらいいなって思うんだ、何でも屋」
そしておきまりのこの台詞。
そんなにいいもんかよ、と言いながら万更でもない。定年後の再就職先だな、とクラウドはいつものように笑って答える。


「いやー、おまえと飲むとか久しぶりだなぁ!」
すっかり酔って絡んでくる同僚の腕を払いながら、クラウドはなみなみ手酌で酒を注ぐ。ビール!ビールがうめぇ!とでかい声を出す酔っ払いの声もかき消される程、周りには似たような状態の人間ばかりだ。うっせぇ絡むなまとわりつくな暑い!とクラウドがザックス以外でここまで気を許して罵るのは、この彼を含めた数人のみ。同期の仲の良い連中は、みんな辞めるか死ぬかしてしまった。
「おっまえ、恋人出来てから付き合い悪くなってさぁ」
もう俺寂しいのなんのぐちゃぐちゃ何か言っているがクラウドは雑踏の喧騒と一緒に右から左に聞き流している。仕事さっさと切り上げて一緒に空調機探しに行こうなと言っていたはずが、メール一本であえなくおじゃんになったのは自由業ゆえの不自由さか。
仕事を切り上げ買い物に行く気満々だったクラウドはすっかりやる気を削がれ、たまたま通りかかった同僚を引きずって連れてきた。やけ酒だ。クーラー位一人で買いにいくという手もあったのだが、たまにはこんな日があってもいいだろ、とクラウドは思う。
暑くて一緒に寝る気にならないからおあずけってのも。
「あー、しかしなぁ、おまえでも振られるんだな、天下のソルジャークラウドさまがよぉ」
「振られてねぇよ」
頭からビールぶっかけてやろうかと睨んでも、この酔っ払いには通じない。ひゃひゃひゃ、と笑っているだけだ。まったく、仲がいい分タチが悪い。ソルジャークラウドつったら大抵黙らせられんのに、とぶつぶつ言うクラウドも大抵酔っている。
「なぁなぁおまえの恋人、なにやってんの?」
何でも屋だよ、と呟けば、はぁ?聞こえない!と大声でがなられた。
何でも屋!と耳もとで怒鳴り返す。
「何でも屋、何でも屋ってなんだよ、何でもすんのかよ!」
「そうだよ、わりーかよ!」
周りがうっせーんだよ!と酒が入ってもはや喧嘩腰だ。ザックスと二人で飲んでいても、こんな酔い方はあまりしない。なんだか面白くなってきて、二人で怒鳴り合いながらぎゃーぎゃー騒いだ。アルコールとタバコで喉がからからだ。
「あー!あー!まじ、まじうける何でも屋!」
喉を潰してまで言うことでもないだろうに、がんがんテーブルを叩く同僚の頭をうっせぇと殴る。
「……いった、いってぇ、今、今痛かったぞ!?」
反応がおせぇんだよ、と笑うと、おまえ、ザックスさんと一緒にすんじゃねぇ!と拳が飛んできた。酔っ払いのパンチを避けることなど容易く、ひょいと首を傾げたところで、クラウドは違和感を感じた。
「……なんでおまえがザックス知ってんだ」
「はぁ?」
なにいってんだ、ザックスってったらあのザックスさんだろ。ビール、ビールがねぇ、と同僚の手がテーブルの上を滑る。
「……いや、だから。ザックス紹介したことねぇだろ。」
「はぁ?ザックスさんってたら、昔神羅にいただろが」
「……は?」
ビール、ビールと同僚の手がクラウドのグラスに伸びてくる。クラウドはそれを制止することすら忘れていた。とられたあとに、それウイスキーだけど、と突っ込んだ。
「ザックスは何でも屋で…一年前に、スラムの飲み屋でナンパされて」
「いただろ、ザックスさん、俺らが入社したとき、ソルジャーでさぁ…」
人のウイスキーを飲みほしたくせにまだ飽き足らないのか、ビール、ビール、と何かにとりつかれたみたく呟いている。ビールくらい頼めばいいだろ、なんだ、店員気がきかねぇな。
「おまえだってほら、仲良くしてたじゃん。あれ?でもあの人死んだんじゃなかったっけ」
「え?」
喉がかわいていた。唇の皮がぱりぱりして、水を取りたくても腕が動かない。あ、店員さーん、ビール!ビールください!と同僚が叫んでいる。
「ほら、おまえも行ったじゃん、4年前のニブルの魔晄炉の調査で」
「4年前、ニブルの、」
ビール、ビール!と喚く声が癪に触る。なんだ、なんでこんなでかい声で呼んでるのに来ないんだ。いくら店がうるさいったって聞こえるだろ。文句を言おうと立ち上がろうとして、クラウドはすとんと身体が抜ける感覚を味わった。意識だけが立ち上がろうと動いて、身体は椅子に座ったままだった。
あ、と思った。眼球すら満足に動かせない。向こうから光が迫ってくる、さっきまで輪郭を保っていたのに、いつの間にか境界がなくなって、人の形をぼんやり残しただけの。
「あれ、そういえば」
喉が渇いた。動けない。唐突に、クラウドは朝の夢を思い出した。その隣に光の塊がふよふよと寄ってきて、同僚の言葉を遮った。
おきゃくさまぁビールおかわりですかぁおきゃくさまぁ。
泣き叫べ、とまた脳が指令を発する。泣け、叫べ、動け、指令は段々小さくなる。余計な声にかき消される。
おきゃくさまぁごちゅうもんをおうかがいいたしますおきゃくさまぁおのみものはいかがされますかぁおきゃくさまぁ、
同僚が光の塊を遮った。手でしっしっと追っ払う。
なぁ、と低い声で、動けないクラウドの耳元で囁いた。
「おまえ、いつソルジャーになったんだっけ?」
叫べない。泣きたい。俺は声を上げたいんだ、ザックスザックス助けてくれザックス、ザックス……光が迫ってきてクラウドに囁く、だめよクラウド聞いちゃだめねぇクラウド、クラウドはソルジャーなんでしょうとても強いんでしょうだからそんな言葉にだまされちゃだめよねぇそれよりザックスってだぁれ?おかあさんに教えて
「ザックス」とクラウドの脳は、光の言った言葉を言われるがままに復唱した。
……ザックスってなんだっけ。



見渡すかぎりの快晴、吸い込まれそうな空にザックスは故郷の空を思い出して、ほうっとため息をついた。舗装されていない道を走るトラックは、そんなザックスの物思いにも無遠慮にがたがたと音を立てる。
あ、鳥、とザックスが口を開けた瞬間、穴にでもはまったのか、トラックが大きく傾いた。
「ってー…頭打った……」
「わりぃにーちゃん!そっちのにいちゃん落ちてねぇか?」
トラックの運転席から飛んでくる威勢のいい声は、がさつだが人の良さが滲み出ていた。
ぜんぜんへーき、とバックミラー越しに手を振る。機嫌よく鼻歌を歌うおっさんと目があった。
さっきまで掛かっていたラジオは、残念ながら電波を受信できなくなってお役ごめんと成り果てた。代わりに流れる調子っぱずれなおっさんの歌のレパートリーは、ザックスの好みと合致していて、これはこれで案外気分がいい。
うまいことヒッチハイクできたもんだとザックスはクラウドを抱き寄せる。いくら元ソルジャーでも、動けないクラウドを担いでいくのには限界があった。
もうちょっとだからなクラウド、と話し掛けても、勿論クラウドの反応はない。
瞳はぼんやり膜が張ったように薄く輝いていて、典型的な魔晄中毒者のそれだっだ。地面を向いて、焦点が定まらない。
「ここ何日かなぁ、調子良かったんだけどなぁ……あ、でもおまえ、意識あったら絶対車酔いしてんな、これ」
重度の魔晄中毒だ、自然に治癒するはずがないとモグリの医者に言われた。治りかけてるだのなんだのはおまえの妄想だ、とまで言い切られ、いやそれでも、と食い下がったが無駄だった。
そもそも医者に噛みついたってどうにもならないのだが。
「だってなぁ、ちょっと反応したんだもんなぁ…」
期待だってしちゃうよなぁ、とクラウドの頬を撫でる。
クラウドと呼んだとき、わずかにではあるが、確かに目があった。口が動いて、ザックスと言った。思い違いなわけがあるか。
……ザックス、とは言っていないかもしれないが。何か言おうとしたのには違いないのだから。
白くて綺麗だった肌は、汗やら泥やらで淀んでしまって見るべくもない。
ごめんなぁ、とザックスは呟いて髪を梳く。指が通らず、きしと軋んだ。
「ミッドガルついたら、いい医者も薬もあるからな。そしたら絶対治るからさ」
あんなヤブ医者じゃなくてさ、といいかけてザックスはやめた。あの老人は、もぐりではあるが決してヤブではなかっただろう。
少なくともクラウドの症状について、彼は医者として何一つ間違ったことを言っていなかった。自然に治癒するはずがない、正しすぎて泣きたくなった。
治ったら、治ったらな、とザックスはクラウドに言い聞かせる。
一緒に何でも屋しような、と笑った。