船着き場に面したその店は、人の声とかシーリングファンが天井で風を切って回る音、コンクリートで固められた港に波が寄せて割れる音で満ちていて、その間をピアノの旋律が縫うように広がっていく。
ちょうど食事どきで店が混みだす時間帯、目当ての人物を見つける事が出来るかというヴィンセントの心配は杞憂に終わった。
クラウドがとても目立っていたからだ。一人、外に向いたカウンターの一角を陣取り、ぼーっと夜の海を見ているだけなのだが、その様子はとても浮世離れしていた。――浮世離れしているのはヴィンセントとて同じなのだが。
人の目を引く端正な顔立ち、金色の睫毛に縁取られた見るものに強烈な印象を残す魔晄の(と言っても最近もう魔晄を知っている人間は少なくなってしまったが)瞳は、ぼんやりとして視点が定まらない。
酔っているのだろうかとヴィンセントは首をかしげた。珍しいこともあるもんだ。
店は混雑しているにも関わらず、クラウドの周りだけがぽっかりと開いていた。明らかに避けられている。なんともまぁ分かりやすい反応に、ヴィンセントは顎に手をやった。
原因は一目瞭然。彼の傍らに堂々と置かれた身の丈程のバスターソード。使い込まれた刀身はぼろぼろで、パン切り包丁の方がよっぽど切れると嘆く割に手放そうとしない、アレだ。
重いわでかいわ見た目にも物騒だわの三重苦、しかも斬れないときたもんで、ヴィンセントにしてみれば百害あって一利なしだと思うのだが、そう突っ込まれて「でもほら、なんか持ってたら落ち着くし」とクラウドが必死になって言い訳するので、ヴィンセントとて鬼ではない、そっとしておくことにした。それは安心毛布か、と内心思わないでもなかったが。
「……すまん、遅れた」
声を掛けるが反応がない。ヴィンセントは自分の声が、自覚しているより通らないことを知っているから、今もきっと聞こえなかったのだろうと解釈した。
バスターソードが立て掛けられているのとは逆側のスツールを引き、腰を下ろしたところでやってきた店員に、とりあえず黒ビールをハーフで、と言ったはずが、黒ビールしか出てこなかった。
一瞬どうしようか迷った後で、店員を呼び止める方が骨が折れそうだと諦める。それよりも、とヴィンセントは隣で海を眺めたままのクラウドに身体を向けた。ヴィンセントが隣に来たにも関わらず、こちらを見ようとすらしない。
「クラウド」
さすがにこの距離でなら聞こえないはずもないだろう。
反応すらしないクラウドに、これは本格的に酔っているのか、と訝しんだところで、クラウドの瞳がヴィンセントを写した。
少し潤んではいたが、酔っている様子も見えず、しっかりとした意思を持った瞳だった。
「……約束、一週間すぎてるけど」
低い、地を這うような声に思わず怯み、と言うより己を省みたという方が正しいか、殊勝にもすまんと頭を下げる。
「その……船が欠航していて」
「……アダマイタイマイのでっかいのが出たから入港できなかったって言いたいんだろ。……それ、俺が倒したし。一週間も前に」
「……そうなのか?」
完全に読まれていたがそれはそれ。だてに人の倍の人生の経験を積んではいない。亀の甲よりなんとやら、しらっと答えてはみたが、クラウドの視線は冷ややかなままだった。
「そうだよ。いっつも思うけどさ、もうちょっとうまい嘘考えろよな、一週間ってひどいだろ。日単位で寝過ごすなよ」
さすがに返す言葉もない。ぐぅの音もなく黙り込んだヴィンセントに、クラウドはため息一つ。また外に目をやった。
怒っているのかと恐る恐る顔色を伺ってみれば意外や意外、怒るというよりは――。
おや?とヴィンセントの視線が絡むのを嫌って、クラウドは首をふった。
「……おかげでいらん失恋までして……」
「失、恋?」
思いもよらないクラウドの言葉に、ジョッキに引っ掛けていた指が滑り、数センチ落下した。幸いにも少し泡がこぼれた程度だったが、紙ナフキンであわててテーブルを拭うヴィンセントに、何動揺してんだよ、とクラウドの対応は冷たい。
「もう、最悪。帰ろっかなこのまま。あと10年は籠もってやる」
「おまえに籠もられては私がマリンに合わす顔がないのだが……」
今度こそ連れてこいと言われてるのに、とヴィンセントがぶつぶつ恨み言の様に呟くのも無視して、クラウドは海を見ていた。手に持ったグラスからは甘い、リキュールの匂いがする。
さっきからずっと同じことを考えている。白いシーツは、朝焼けの薄いオレンジと透明な紫色に染まっている。夕焼けよりもずっとぞっとする色だとクラウドは思う。朝が苦手だ。
膝を抱えてシーツを引き寄せた。えらく乙女チックな己の所作に、しばらくして吐き気がした。
低血圧、と言うのはただの言い訳で、ミッドガルで会社勤めをしていた頃には起きれていたのだから気持ちの問題だ。寝不足で充血した目に、潮の匂いと朝日が染みる。
(なまえ、なんだっけ)
隣には誰もいない。名前くらい聞いておけば良かったと今更ながら後悔した。
船が出たら行くんだと聞いた。もう出ただろうか。
その席から見えるコンクリートの海岸線は、昼間ならばはるか北の岬の灯台までのびているのが確認できるのだが、今は海面より少し高いところに灯台の灯が浮かぶだけ。海面が月明かりを反射する様子を眺めたまま頬杖をついてしばらくそうしていて、気が付けばいい時間になっていた。クラウドが来たときは人で満杯だった店内も、客がひいた今はピアノの演奏が幅を聞かせている。
ふと耳慣れたメロディーが流れて、クラウドはピアノの方をちらりと見た。
アイアムアロック、とクラウドは呟く。アレンジはされていたが、その懐かしい音楽に、弾き語りではないのを惜しむ。
そういやあいつが好きだったなぁと思いながら、歌詞を声には出さず口ずさんだ。少しばかり感傷に浸りながら――残念ながら手元に一枚も残らなかったレコード、残らなかったと言えば彼からもらった指輪も時計も財布もピアスも(ピアスだけは、かの英雄を追う旅の途中でなくしてしまったのだが)、神羅とメテオに持っていかれたそれらを思い出して。
手元に残ったのがバスターソード、元々親友のものだったその剣を相棒にしてもう結構な年数が経つ。かつてはファーストソルジャーの相棒としてその名を馳せた大剣も、今や切れ味はなきに等しく、その大きさと重量のおかげで剣というより、クラウドの中では鈍器にカテゴライズされている。場所も取るし携帯するだけで悪目立ちするが、かといって今さら手に馴染んだこれを手放す気もない。ただただ、自分の馬鹿力に耐えてくれている事に感謝している。
が、そんな事情を知らぬ人間には、ただの物騒極まりない凶器に過ぎない。
今この場所に限らず、遠巻きにクラウドとバスターソードに興味の視線を向ける者はいても、直接何か言ってくる人間は滅多にいない。たまに現れる物好きを除けば。
「いい曲だよな、これ」
……酒場はそんな物好きとの遭遇率が高いとしみじみ思う。いつも飲んでる時だよな、と今までのパターンを思い出し、しかしそれも当然かと納得する。例え人里に降りてきても、食事の時以外他人と接する機会がそもそもない。
「なんて曲だろ、聞いたことないんだけど」
スツールの脚ががたんと床を叩き、クラウドの腕の横で氷が揺れた。リキュールの甘い匂いに混じった、香水とは少し趣の違うエキゾチックな香りがクラウドの鼻腔をくすぐる。
話し掛けてきた男は、カクテルグラス片手にカウンターに背中を寄りかからせていて、クラウドが目だけでそちらを見ると、ね、おにーさん?とグラスをあげて笑ってみせた。
喉の奥でクラウドは呻いた。演色性の低い照明のせいで、薄いセロファンを通してみている様な気がした。視界に膜が張っている。
ひどい、既視感。
「……I am a rock」
「へぇ……知らね」
「……古い曲だから」
クラウドが返事をしたのに気をよくしたのか、男は身を翻し承諾もなしに隣に座る。
オレンジのライトに照らされた男の顔はのっぺりとしていた。照明のせいかとも思ったが、それを差し引いても酔っているわけではなさそうで、大剣なんて持った(風貌はともかく)怪しいクラウドに話かけてきたのも持ち前の大胆さからか。
「あんただよな、昼間にでっかい亀退治してたの」
「……見てたのか」
「ああ、うん。野次馬ん中から。ちょっと見惚れちまった。そんな大きな剣振り回す人初めてみたし、俺」
子供から大人に骨格が変化していく途上の、幼さの残る横顔に人懐こい笑みを浮かべ、それちゃんと重いよなぁ?とバスターソードを指す。
ずけずけとした物言いにもなんとなく嫌な気がせず、持ってみる?とクラウドは笑ってみせた。
「……や、やっぱいいや」
「なんで?」
「持てなかったら格好悪いだろ」
言って頬をかく仕草に、思わず笑みが漏れる。男は笑うなよ、と唇を尖らせた。
服の袖から伸びる両腕は、成長期の青年に特有のしなやかさがあったが、見ようによっては急に大きくなった身体を持て余しているようにも感じられた。
余分な肉が削げてごつごつとした腕で顎をささえ、
おにーさん昨日もいたよな、と唇に薄い笑みを浮かべながら言う。
「……ストーカーか」
「そんなでっかい剣持ってたら嫌でも覚えてるって。なぁ、誰か待ってんの?」
そうだよ、とクラウドは答えた。ふぅん、とカクテルを口に含み、少し思案してから彼はクラウドにちらりと目をやって顔色を伺う。
「もしかして待ちぼうけ?」
「船がでたら来るんじゃないかな」
ああそっか、大変だね、と男は言うが、そんな事に関係なく、その待ち人は人を呼び出すだけ呼び出して待たせるのが常であるから、クラウドも最初から期待はしていない。
幸い金に困ってはいないし、小遣い稼ぎにモンスター退治を請け負ったばかりだから、二、三日なら飲んだくれて待ってみるのもいいかなと思う……二、三日で来ればいいのだが。
「綺麗な、髪だよな」
「なにが」
「……目も蒼いし」
「……あー…」
「どこの人?」
黒い瞳にブラケットライトの歪んだ光が浮かんでいる。きらきらして綺麗だなぁ、こんな眼してたっけ、と違和感を感じる。こんな真っすぐな目は、親友には似合わないとまったく的外れの感想を抱いた。
胸の中にあるいがいがした塊が、空気を取り込んで肺の入り口をふさいだ。吐き出したい、と言う欲求に素直に従い、クラウドは通じないのを承知でニブルヘイム、と意地悪く言ってやる。
「……どこ?」
困った顔が途端に年相応に幼くなって、クラウドは笑う。
なんか、その顔すごくいじめたくなるんだけど、と言うと、彼の眉間の皺が一層深くなった。
なんでもう出来上がってんのと呆れた声で彼が言う。小さく呻いた正真正銘の飲んだくれは、潤んだ目で男をじっと見てなんとか焦点をあわせる努力したが、やがてそれも諦めた。くっそ、と舌打ちして掌で目を覆い、上半身をテーブルに俯せた。クラウドの横に座り、大丈夫?と彼はさりげなく背中をさする。
「いつから飲んでたの?」
「昼過ぎから……」
「うっわ、今俺の前に駄目な大人の典型例がいる」
「黙れ馬鹿」
ちらと視線を向け、仕事終わったのかよと尋ねると、当然と胸を張った。
粉をかけてきたのはそちらのくせに、昨晩はクラウドを残し早々に引き上げた薄情者は昨日のようにクラウドの横に腰掛けビールを呷る。
一口ちょうだいと名前を呼ぼうとして、あれ、なんだっけ、とクラウドは首を回した。故郷を飛び出して日雇いで金を稼いでいるという彼の、浅黒く日焼けした腕が見える。その時に名前も聞いたんだけどな、とビールを諦めたクラウドは目を閉じる。
寝るなよ、と上から降ってきた声に、うっさいと悪態を吐いた。
すごく似てる、ような気がする。声の響き方や語尾の息の抜き方、顔の造作、笑い方、グラスを持つ指の角度、似ていると思えばどこまでもそっくりに思えてくるから不思議だ。自己暗示というやつだろうか。
このまま5、6歳年を取れば本当にクラウドが間違えかねない位そっくりになるのかも知れないが、今はまだまだ。たとえ酔っていたとしても名前を間違ってしまうほどではないし、いくらクラウドもそこまで恥知らずではない。
なぁ、とクラウドの髪に触りながら彼が言う。
「こんなとこで寝んなよ。てかなんでそんな飲んでんの?金あんの?働けよ」
「あのなぁ……飲まなきゃやってらんないこともあるんだって……大人には」
「なにそれ」
くすくすと笑いながらもクラウドの髪を弄るのをやめない男に、もう間違えて名前を呼んでやろうかと思う。おまえは俺の昔の男に似てるんです、なんて言われたらさすがに気持ち悪くなって逃げるだろうか。失礼千万と怒るだろうか。
「……そういえばさぁ、クラウド」
クラウドの暗い思考を遮るように彼が言う。こんなこと考えてないで早く名前思い出さなきゃ、とクラウドは観念して体を起こした。なんだもう平気?と笑う声に軽く頭を振る。
「クラウドの故郷、ニブルヘイムって言っただろ。あれがどこかわかんなくてさ。今日仕事行って皆に聞いたんだよ、そしたら誰も知らねぇの。どこ?ど田舎?」
「うん、もうすっごいど田舎」
「……なんでンな投げ遣りなんだよ。怒った?」
「いや……」
だって言ったっておまえ絶対知らないし、と口に出す一歩手前で止めた。無知を責めるような言い方はする必要がない。
とっくの昔に廃村になった村など、どうして彼が知っていようか。
ミディールの方から出稼ぎに来ているらしい彼の仕事をクラウドは詳しくは知らないが、よほどの地理マニアもしくは、かの災厄について詳しいものでない限りニブルヘイムの名前を覚えている人間などいないだろう、そして目の前の彼がそんな希有な人種とも思えなかった。
「クラウドって変な奴だよなぁ」
「……何が」
「だってさ、今どきんなでっかい剣持ってるやつなんかいないしさぁ、見た目俺とそんなかわんないのにおっさん臭いし」
「………おっさん?」
失礼な、と思うより前にあんぐりと呆れた。ついでになぜか笑いが込み上げて、なんでそこで笑うんだよ、となぜか彼が唇を尖らせた。だって本当に、彼が思うより自分はずっと年上だから。
「なぁ」
「なに?」
無意識にザックス、と語尾に付けてしまいそうになり、クラウドは咳払いをして言葉を濁した。
「酔ってる?」
「酔ってねぇよ」
強がっておいてそれとは裏腹に、駄目かも、とクラウドは額を押さえた。昼間から抜ける間なく摂取され続けたアルコールがぐるぐる回る。そういや昔はやたら名前呼んでたよな、と些細なことを思い出してしんみりしてしまったのも酔っているせいだろうか、らしくない。
「そんな酔ってんならさぁ、俺の部屋で飲めば?」
俯いたクラウドの背中を撫でながら、優しい声で彼が言う。クラウドの言葉なんて端から信じちゃいない。人の話聞いてんのか、と文句を言おうと顔を上げたクラウドとかち合った彼の目は、軽い口振りから信じられないほど真剣だった。
あれもしかして、とクラウドはやっとそれが口実だと気付く。何年生きてみても、こういう鈍な部分は直らないのだ。
「どうすんの」
彼の切羽詰まった声に、頷くのも一つの手か――しかし名前も覚えていないのに?とクラウドは頭を振る代わりに瞬きする。首を動かせば、イエスともノーとも、とにかく勝手に解釈されてしまいそうだった。
「――俺は」
「やだ?」
子犬みたいな目をして、彼が少し首を傾げる。眉間に僅かな皺が寄る。ライトに照らされて、その凹凸が深い影を作った。
クラウドは床に視線を落とす。床のうえに落ちて踏み潰されたポテトフライの残骸が目につく。
「嫌じゃないけど」
嫌じゃないけどセックスなんてしたら確実にその最中に、間違って彼の名前を呼んでしまうよ、なんて言い訳になるだろうか、注意喚起するくらいにはなるだろうか。間違ってしまっても怒って失望しないで下さいという。いや、失望くらいされても良いのか、どうせ一夜限りだ。さてその場合、顔ばっかり見ていて名前を聞いていませんでした、なんて言い訳になるだろうか、まあどうでもいいかとクラウドは彼を見ながら頷いた。
喜色を顕にする彼を見ながら、せっかく気に入った店だったのに明日からあの寝坊助が来るまでどこを根城にしようかと、そんな算段をしていた。