雨粒がガラスをたたく音に、クラウドは顔を上げた。ああ、雨だ、とクラウドはぼんやりと思う。
まだ頭は直前まで読んでいたテキストの中身を反芻していて、あいつ傘もってんのか、とここにはいない恋人のことに考えが至るまで少し時間を要した。
数時間前にはまだ星が見えていた。いつのまに機嫌を損ねたのか、今や夜空は雲に覆われて遠慮なしにぼたぼた雨水を落とす。
「にわか雨の恐れがあります」と夕方のニュースで、晴れ渡るミッドガルの夕空を背景に言った天気予報のお姉さんを信用していなかったわけではない。降っちゃったかぁ、と呟きながらクラウドは伸びた。真剣に文字を追っていたせいで、すっかり固まってしまった身体の節が音を立てる。
長い夜の時間潰し程度に始めたはずが、持ち前の集中力を発揮してしまって、気付けばテキストのページが半分を過ぎていた。
生憎その集中の糸は切れてしまったが、さりとてわざわざ苦労してつなぎ止めなければならないものでもなし、クラウドは軽い達成感と共にテキストを閉じた。そのままふらふらと窓辺に歩み寄る。申し訳程度に耳に掛かって忘れられていたヘッドホンが、クラウドが立ち上がるのに贖えず外れて名残惜しそうに床に落ちた。
窓の外には、濡れた夜のミッドガルの街。霧のような細い雨でけぶる闇の向こうには伍番魔晄炉が不夜城の様にそびえ立つ。その足元に蠢く無数の車の光は、週末のせいかいつもより多い。のろのろとしか動かない車の間を縫って、列車の長い光の列が近づいてくる。それが終電だと時間を見てわかるのは、クラウド自身よくそれのお世話になるからだった。
「あの馬鹿」
何を言おうが誰にも聞き咎めらることがない。一人暮らしをする上で最大とも言えるその利点をクラウドは重々承知している。会いたい、と言う本音がその言外に確かに見えたとしても、それをからかう同僚も、浮かれて調子に乗る恋人もいない。
鞄のなかに入れっぱなしの携帯には「ごめん、無理になった」とかなんとか、そんな端的なメールが来ていたはずだ。もちろんその差出人は件の恋人であり、そして友人知人の限られたクラウドには、その代わりに都合よく予定を埋めてくれる適当な相手はいなかった。
最終列車を境にして、もうあと30分ほどすれば、街はぐっと静かになる。
眠らない街と俗に言われるミッドガルも、プレートの上には夜がきて、夜になれば飲み足りない人間は居場所を求めてプレートの下に降りる。そこには本当に眠らない街があって、プレートの上でいるよりずっと安価に、そしてずっと簡便に(酒でも女でも薬でも)手に入るからだ。
特に今日は雨。きっと今日は繁盛しているのだろう。プレートの下には陽の光も届かない代わりに、雨に濡れることもない。



おまえに会えるとかすげぇ幸せ、と場所も選ばずザックスがクラウドの耳元で甘く囁いたのは今日の昼、奇跡みたいな巡り合わせで二人きりになったオフィスのエレベーターの中。
ソルジャーであるザックスの階級は、クラウドよりだいぶん上だ。生真面目な性格上クラウドは、ザックスと恋人同士になった今でも仕事場では敬語を使う。距離をとっているわけではなく、切り替えだとかけじめだと言うのだが、んな他人行儀じゃなくていいのにとザックスにはすこぶる評判が悪い。公の場に色恋持ち込むことを嫌うクラウドに対し、ザックスは極めて寛容。いや、いつでも隙を狙っていると言うべきか。
広い社内、まず仕事中に会うことさえ少ないというのに、狭い個室に二人とはどんな運命の悪戯か。
二人きりになった途端、な、と言って(一体なにが「な」なのか)それまで一番奥にいたくせに、わざわざ操作盤の前にいたクラウドに密着しにくるのだからザックスは質が悪い。
見晴らしがいいと評判の外観エレベーターは、裏を返せばガラス張りで外から丸見え、大胆にもクラウドの尻に手を伸ばすザックスの行為にクラウドは気が気でない。
「……やめろって」
「やだ」
腰に腕を回されて、こういうことに不慣れなクラウドは心拍数が一気にあがった。
認めるのも悔しいがザックスは格好いい。でなければプライドの高いクラウドが身体を許す気になるか。
いつもとシチュエーションの違う非日常的なスリル感も加わって、あ、なんかいいかも、と思いかけ、いやいやここは流されるべきじゃないとクラウドの理性が必死に軌道修正をかける。
「……いい加減にしろって」
制止を試みたはずの自分の言葉に、若干甘えの色が差していたことに言った後で気付いて後悔する。
なんだこれ、嫌よ嫌よもなんとやらか。余計ザックスを喜ばせているだけじゃないかと、首を回してザックスを見れば案の定、にやにや嬉しそうに笑っていた。「なんだよ」
「べつにぃ」
凄んでみても効果なし。どうせ俺がどきどきしてんのなんかばれてんだろうなと思った瞬間に羞恥で耳まで赤くなって、余計なことを考えた自分を殴りたくなった。クラウドの動揺を悟ってか、ザックスが嬉しそうに喉を震わせる。
ザックスの匂いがする、とか考えなくてもいいことを考えて、余計に自分で自分の首を絞めた。しかし一旦沸点まであがった体温はそれ以上どこにもいけずに身体の奥に溜まる。
男相手に口説かれ触られ弄ばれというシチュエーションは抜きにして、自分も健全な青少年であるところ、この反応は不可抗力だ。
「キスしていい?」
ザックスの意地悪な問いに、クラウドは押し黙った。ふざけるなと拳の一つでもいれてやりたいところだが、いかんせん今は分が悪い。キスくらいと思う気持ちが顔を出し、ちょっとばかり理性が劣勢だった。そもそもそんなこと聞くなよ、と歯痒く思う辺り、完全にザックスのペースだ。
それでもここが踏張りどころ最後の砦と頑張った自制心のせいで、素直にうんとは言えずに俯いたクラウドの頭上、エレベーターの表示板はテンポよく階数を刻む。
お互い密着しながら沈黙して数秒、ちらとザックスが上を見上げた。
クラウドがそれに気付くより先に、ザックスはするりと腕を解いた。俺の負け、と笑いながらあっさりと。
そして計ったかのように、ちんと一声、エレベーターの扉が開く。完璧なタイミング。
体温が離れていく間際、ザックスの優しい声がクラウドの耳元を掠めた。
(続きは夜に、)
あまりにも鮮やかな手管にクラウドは身動ぎできないまま立ち尽くした。そしてエレベーターの軽い音が次の階の到着を知らせた。

さて、間抜けなのはここから。そこまで盛り上げておいてザックスから届いたメールは「ごめん、無理になった」とその一言。終業後メールを見たクラウドは、内容よりも、そのメールが届いた時間に目眩がした。
エレベーターで会った時間とほぼ同じ。どうせクラウドを見つけて勢いで誘ってみたものの先約があったのを思い出したか、それともまだ切れていないどこぞの女に泣き付かれたか。
この際女とかどうでもいい、理由がなんであろうと腹立たしいことこの上ない。時間に直せば僅か数分間のハプニングも、クラウドの思考回路を混乱させるには充分だった。たかが書類を取りにいっただけのはずが、どっと疲れた。
なのになんだこの軽さ。どこまで振り回せば気が済むんだと、ふつふつと苛立ちが沸いてくるのは自分がその気になっていたからか。
期待した分落胆も大きかったわけで、夕食はとりあえずのジャンクフード。1週間の溜まった洗濯を苛立ち紛れに洗濯槽に投げ込んで回す間に、シャワーも浴びた。完璧だ。
軽い達成感を味わいつつ、クラウドはソファに座って本を開いた。ザックスとの予定がなくなったのは残念だが、クラウドにもしなければならないことは山のようにある。洗濯買い出しは勿論のこと、部屋の掃除にソルジャー試験の勉強も最近手付かずだ。日々の睡眠も足りていないし、休みの日はゆっくりしたい。
どうせ当分遠征も出張の予定もないし、会おうと思えばいつでも会える。
お互い付き合いもあるし、我を通してばかりもいられない。ある種のあきらめだ。ザックスの気紛れもドタキャンも珍しいことではない。交友関係も広ければ、付き合いだってあるだろう。
(仕方ないよな)

クラウドを現実に引き戻したのは、来客を告げるインターホンだった。ふと視線を窓の外に戻せば、さっきまで見えていた列車の光が消えていた。はっと時計をみて、思ったより時間が経過していることに驚いた。
まさか立ったまま寝てたのかと訝しむ。疲れてんのかなぁと肩を鳴らす姿が窓ガラスに映り、我ながら情けない。
こんな非常識な時間に来る客など思い当たるのは一人だけで、クラウドのため息がまた一つ増えた。結局自分は振り回されてばかりなのだと自覚する。
感傷に浸る暇すら与えず重ねてクラウドを呼ぶインターホンに、はぁいと返事をして扉を薄く開ければ、そこに立っていたのは予想どおりザックスで、その様相はまさにでかい濡れ鼠。あ、と避ける間もなく倒れこんできたザックスを支え切れず、クラウドは壁に背中をついた。さすがに一回りの体格差はきつい。
濡れて服が肌に張りつく不快感に眉を顰める。
「気持ち悪い……」
「え、」
不穏な言葉を漏らして座り込むザックスに、言おうとしていた文句も引っ込んだ。慌てて膝を折ってザックスの背中をさする。心配とかいうこと以上に、こんなところで吐かれたらクラウドが困る。
「ザックス?」
浅い呼吸を繰り返し、クラウドの呼び掛けにもかろうじて聞き取れる程度の小さい呻き声を発するだけではあったが、ひとまず意識があることに安心する。意識がなかったらこんなでかい男をどうやって運べというのか。最悪放置だ。
「……ザックス?」
濡れた髪がぺったり張りついたザックスの頬をぺちぺち叩く。顔色はすこぶる悪い。なぁ、大丈夫?と身体を揺さぶるとわずかながら反応が返ってきた。
「あの、おっさん…」
「ん?」
ザックスが酒で擦れた声で訴えるのに、クラウドは首をかしげた。
酔っ払いとの会話に必要なのは適当な相槌と忍耐だ。わからなくても、うんうん相槌を打って流すに限る。
「あんなん付き合いきれるかよ…伝説のザルだぜ、なにが紹興酒は飲んで頭を振るもんだだ、てめぇ振らねぇくせに、誰だあいつに間違った知識吹き込んだの……」
「なんだそれ」
呂律がまわらなくても上司の口真似を忘れないのは、彼なりの屈折した忠誠心か。思い出したようにまとわりついてくる腕を剥がそうとしても、力の抜けた筋肉の塊はやたらと重い。
しかもびしょ濡れだし。
吐くなよ吐いたら叩きだすからな、と言い含めてクラウド立ち上がる。
バスタオルを掴んで玄関に戻ると、ザックスは身体を壁に寄りかからせて目を閉じていた。ザックス、と呼ぶと薄く目をあける。
「クラウド」
酔っ払いゆえの無邪気さか、子供みたいな笑顔を見せる。そんな顔しても騙されるかとバスタオルを投げつけても、ザックスはへらへら笑っている。
「クラウドぉ」
何が楽しいんだ酔っ払いが、と毒づきながらわしゃわしゃ頭をかき回せば、一転して気持ち悪い、と死にそうな声がした。無視してバスタオルを動かしていたら、ザックスがクラウドの腕を掴んで止めた。
「生意気だな。拭いてやってんのに」
「いや…頭振られたら吐きそうなんだけど」
本当に堪えたらしい。泣きそうな顔をするのが楽しくて、クラウドはわざと意地悪を言う。
「吐くなら外で吐け」
「………せっかく来たのにクラウドが追い出す……」
「頼んでねぇよ」
一生懸命声を絞りだす様子がおかしくて、クラウドは笑いを堪えられない。可愛いなぁ、とは自分より身体のでかいソルジャーに抱く感想ではないのかも知れないが。なんだよなんだよ、とザックスが文句を言いながらクラウドの腰に腕を伸ばした。
抱き寄せて、ここが定位置、と言いたげにクラウドの胸に顔を埋める。
酔ってても素面でも結局変わんないのな、と笑いながら、なぁどこで飲んでたの、と頭を撫でる。最近使い方を心得てきたと評判の飴と鞭。
「えー……」
なぜか言葉を濁すザックスに、なんでそこ誤魔化すんだと思いながら、不明瞭なザックスの言葉を根気よく拾う。何度か聞き返してやっと聞き出した店の名前は、七番街スラムの有名店。クラウドも何度かザックスと行ったことがある。お気に入りの店だ。だが決して、クラウドの家から近いとは言いがたい。
終電はぎりぎりあったかなかったか。雨が降る中、わざわざ歩いてきたんだろうかと、頭に浮かんだ疑問にちょっと考え込む。クラウドの沈黙から何か悟ったのか、ザックスが相変わらず胸にへばりついたまま、もごもご口を動かず。なんだかくすぐったい。
「……雨宿りによっただけだって」
この状況では、何を言ってもクラウドに適わないだろうに無駄な抵抗。
散々苛められた分の意趣返しのつもりだろうか、ザックスのらしくない物言いに、へぇそっか残念、と応じるクラウドの声は明るい。
ザックスがびくっと震えてクラウドの表情をうかがう。
「じゃあ止んだら帰るんだ」
にわか雨らしいけど?とにっこり笑う。
「……………」
クラウドに会いたかったので会いに来ました、と酒焼けしたガラガラの声でザックスが言う。両手を上げたのは降参のつもりだろうか。
クラウドは一瞬きょとんとして、おかしいなぁ、昼間の方がよっぽど格好よかったんだけど、と笑った。