クラウドの腰を節ばった手が撫でまわす。背中に走った嫌悪感に、男を蹴り飛ばしたい衝動をクラウドはグラスを傾けて押さえた。僅かに身体をずらして距離を置くのに、執拗に手が付いてきた。
酒で収まり切らない嫌悪感を露に男を睨んだが、あっさり受け流された。濁って卑屈に光る目は、自分が優位にたっている事を分かっている。こんな下衆に足元を見られているのは不愉快なことこの上ない――が、仕方ない。腰を触られるくらい、許容範囲だ。かなりぎりぎりだが。
クラウドはとにかく酒を煽った。クソ不味い、と声には出さずその代わり舌打ちした。
「ミッドガルに入るには」
酒焼けしてがらがらの声で男は呟く。声というよりほとんど息だった。
クラウドの席から少し離れたテーブルの方で喧嘩が始まり、派手にグラスが割れる破裂音に男の言葉が掻き消える。聞き取りにくい相手の声に苛立って眉を寄せた。
男も喋りにくさを感じたのか、喧騒に向かって唾を吐くとクラウドに顔を寄せる。酒と煙草が交じった口臭が顔に当たり、クラウドの表情が一層険しくなるが、それくらいで怯む相手ではない。
「正規の方法じゃ無理だ。最近じゃテロリストを恐れて神羅が余所者を完全にシャットアウトしてる。神羅の通行許可証かIDがなきゃまず無理だ、ゲートもくぐれん」
「それは知っている」
腰を撫でていた男の手が、クラウドの体のラインに沿っておりていく。手はスツールにあたって止まり、もどかしそうに撫で回す。
「アンタみたいな流れ者なら偽造IDしか手はないが、それを手に入れるにゃ骨が折れる。ただ本当に欲しいなら」
男の口元が弛んで、黄色い歯が光った。
「俺が紹介してやってもいい」
クラウドは目を細めた。浮浪者然とした風貌のこの男が、この辺を取り仕切る麻薬密売組織の末端売人だと、勿論知った上で近づいたのだが、まさか仲介を買って出られる程パイプがあるとは思えない。男の言葉が真実なのか、それとも自分の身体目当てにできもしない大言を吐いているだけなのか、クラウドには判断が付きかねた。腹の探り合いはそもそも得意ではない。
ここは誘いにのるべきか、断ったところで他にあてがあるわけではない。問題は自分の自制心が保つかどうかの一点に掛かっている。二人きりになってこの調子でこられては、情報を聞き出す前に思わず殺してしまいかねない。
「どうする?」
クラウドはグラスを置いた。男の目は淀んでてかてかして欲望の膜が張っていた。手がぶるぶる震えているのは、薬物中毒者によくみられる特徴だった。
「……わかった。なら」
ジャンキーで自分の尻の穴を狙っている(らしい)男の言葉をどれほど信じられるか定かではなかったが。
「案内しろ」
睨んで、しつこく腰をまさぐる手を掴んで捻りあげた。


「――それで、突っ込ませてやったのか?」
カウンターの奥で、くく、と低く男が笑って影が揺れた。彼はクラウドの話を楽しんでいるようだった。どいつもこいつもまったく不愉快だとクラウドは思う。売人の言った何でも屋は、場末の酒場の二階にあった。雨風にさらされて錆付き、今にも崩れ落ちそうな非常階段を上ったところに、申し訳程度に「何でも屋」と書かれたプレートが、鉄のドアにかけられている。外見通り内装も老朽化がひどく、クラウドが動く度に腐りかけた床が軋み、嫌な音を立てる。
「入れるより踏んでほしいって言うから踏んでやった」
「そりゃぁ、いい。あいつは真性のマゾだからな、喜ばれただろ」
おまえみたいな美人になら俺もお相手願いたいけど、と言う軽口は無視して、クラウドはバスターソードを男の喉元に突き付ける。男の纏っていた空気が一気に尖って、笑っていた口元から息が漏れ、歪んで釣り上がった。
「穏やかじゃねぇな。涼しい顔して、案外短気か」
「ここに来るまでにだいぶMP削られたんだ。」
「ほんとせっかちな奴だよな」
怯みもせず男は笑う。調子が狂う、とクラウドはため息をつく。この手の手合いは苦手だった。こちらがどれだけ殺気を向けても受け流される。こんな裏稼業を構えているだけあって、余程の手練れか、ただ馬鹿なだけか。とにかくどちらにしても、口で勝てる気がしない。
それでも引いては負けだと相手を睨んで語気を強めた。
「報酬次第でなんでも引き受けると聞いた」
くい、とバスターソードの切っ先を上に向けた。苦笑しながら手で刃を押さえ、男は片手をひらひらと振って、大きく影が揺れる。
「何でも屋だからな」
男の顔が照らされて、あの売人が言っていた通り、潰れた片目が明かりの下鮮明に浮かび上がった。おびただしい銃創、服に覆われていない部分は、代わりに大小深さも様々に付いた傷痕が再生したばかりの生々しいピンク色の皮膚で覆われていて、顔には火傷の痕、笑うと口の周りの皮膚が引きつった。
ぞっとする。
もっとひどい創瘢をクラウドは今まで何度も見たことがあったし、それらに比べれば目の前の男は、まだ中身が見えていないだけマシだったのだが――なんだろう。寒気に似た感覚が、鳩尾からぐっとこみあがってくる。
クラウドは頭を振った。
「ミッドガルに入りたい。そのためにIDが欲しい。アンタに頼めばなんとかなると奴は言った」
剣先を下ろし言うクラウドは言う。
「アンタなら偽造でもなんでも、手に入れられると聞いた。Mr.――」
「ザックスでいい」
「……ザックス」
舌に乗せたその名前は、初めて聞くはずなのにやけに懐かしかった。ザックスの目を見る。彼の顔に残ったもう片方の、黒い瞳がクラウドを見ていた。
「IDの変造偽造は捕まったらコレルプリズン送りだぜ。しかもそう簡単に手に入らない」
「……金ならある」
クラウドが懐から小さな麻袋を取り出し、口を開けてカウンターに置けば、零れ出た緑のマテリアがカウンターに転がった。
「地火冷雷のマスターレベルだ」
ザックスが椅子から身を乗り出す。目を細めて緑に淡く輝くマテリアを指でつまみ上げ、手の平に乗せる。
「確かに本物だな」
「まだ足りないか」
「いや……」
さほどマテリアには興味を持たないのか、真贋を確認するとまるでビー玉の様に指で弄ぶ。にやけていた口元を引き締めると、じっとクラウドを見た。
「……なんだ」
クラウドが睨むと、ザックスは言い淀んで(およそ何かに遠慮するタイプには見えないのだが)、顎に手をあてる。
「いや、その話はもういい。依頼は受けた。出来る限りの事はする」
「なら、なんだ」
クラウドの言葉に、ザックスの視線が床を彷徨った。きぃ、とザックスが背もたれにもたれれば、椅子までもが悲鳴をあげる。ザックスが思案した末に口を開いた。
「おまえが綺麗だから見惚れてた」
「………は?」
「どっかで会った事ないか?俺ら」
「……まったくの初対面だ」
「じゃぁ運命だな。運命を感じた」
しまった躊躇せずに話を終わらせればよかったかとクラウドは本気で悔いた。
こんな事ばっかりだ。尻を撫でられ言い寄られ、挙げ句の果てに商談の席でナンパとは。真面目な声を出すから何かと、一瞬期待したのに。――もしかして、自分を知っているんじゃないか、とか。
「アンタ、ふざけてるのか?」
相手にしては負けだと思い、冷ややかな目でそう突き放せば、至って真面目だと逆に迫られてしまい腰が引ける。
「……本当に」
ザックスがゆっくり立ち上がり、薄暗い店内に影が伸びる。立ち上がった男はクラウドより頭一つ分大きく、一回り身体も大きかった。不本意ながら成人男性の平均身長より僅かに低いクラウドだが、それを差し引いても相手は大きかった。クラウド自身も腕に覚えはあるから、相手がどれだけ大きかろうが、狂暴なモンスターだろうが、怯むと言うことはあまりない。グラスランドの大蛇くらいなら、不意討ちを食らっても倒せる程度の力量はある。
――それなのに。
思わずクラウドは身体を強ばらせる。確かに目の前の男は丸腰だ、敵意もない。
駄目だ近付けるな、と頭の中で警鐘が鳴る。本能にしたがって、それ以上寄るな、とグリップに手をのばしながら牽制する。
「……商談成立しただろ。俺はもう、」
言い掛けた自分の言葉にはっとして、そうだ、話は終わった筈だと我に返る。
もうこの場にいる必要も、ふざけたこの男に付き合う必要はないと気付いてクラウドは逃げを打った。
ぎい、と床が軋む音に追い立てられる様にドアノブを掴む。情けないが、なりふり構っていられない位、クラウドは焦燥に駆り立てられていた。皮膚があわ立って、早く逃げろと頭の中で誰かが囁く。
それにザックスの声が被った。
「クラウド」
ざわ、と身体中が総毛立った。鳩尾のあたりから冷たいものが頭まで昇っていく。気持ち悪い、と口を押さえ、カウンターを乗り越えて自分の腕を掴むザックスを思い切り振りほどいた。軽い眩暈がして視界が定まらない。頭痛に手で顔を覆い、指の隙間からザックスの上腕、色の違う皮膚の境界が見える。少し目を上に転じれば、眉間に皺を寄せた男の顔があった。
(気持ち悪い)


目が覚めた時に覚えていたのは、自分をずっと見ていた2つの眼球で、それは吸い込まれそうな深い海の色だった。そんな喩えが頭に浮かんだから、自分はきっと海に行ったことがあるんだろう、と思った。
もうすぐ、とその蒼い色をした眼球が言う。
もうすぐミッドガルだ、クラウド。
眼球はきょろきょろと忙しなく動き、たまに自分を見て少し細くなった。たぶんそのクラウドと言うのが自分の名前なのだろうと想像がついた。それ以外に覚えている適当な名前がなくて、クラウドは自分をクラウドだと思うようにした。
クラウド、ミッドガル、それからその蒼い目と、クラウドが自分に関して覚えていたのはその3つだった。覚醒したすぐ後には耳に残っていた男の声も、やがてぼんやりと薄れた。
あれは夢か、それとも記憶の断片か。使い込まれて刃の欠けたバスターソード、血が滲む程強くグリップを握りしめていたこれは、果たして自分のものか。
何もわからない、名前も記憶も、アイデンティティをすべて失ったクラウドに残されていたのは、ただミッドガルに行かなければと言う思いで、それがクラウドを突き動かしていた。だって彼にはそれしかなかったから。
もうすぐ――ミッドガルだ、クラウド。
あの何でも屋の声は、クラウドと言う響きは、夢の中で聞いたものに似ていた気もするが、気のせいだったのかも。だって彼の目は蒼くなかったし、夢の中の自分はあの声を心地いいと思っていた。あの声を聞いている自分はとても穏やかで、今みたいにこんな、身体中の皮膚を全部剥いて内臓を引きずりだしたくなるような衝動に駆られていなかった。指先が肉に食い込み、腕に血が伝う。
気持ち悪い、とつぶやいてドアに背を付けたまま、ずるずると床に崩れ落ちた。身体が熱いのはあの男の手を振り切って、一気にあの場所から宿まで走ったからだ。額に浮かんだ汗を拭い、はぁ、と息を吐く。
這いずり回って尻を触られてまでして仕入れたミッドガルへの道だ、早々簡単に手放す気にはならない。明日にはもう一度あの店を訪ねなければ、とクラウドは瞼を下ろす。
粉をかけられようが本気で迫られようが、今はとにかくミッドガルに入れさえすればいい。そうすればきっと何かが変わる――。
渇いてぱりぱりになった唇の皮を噛んで舌で舐めると、しょっぱい血の味がした。