スラムの空気は常に淀んでいる。スラムに蓋をしていたプレートがメテオにすべて剥ぎ取られ、前まで見えなかった空が顔を覗かせるようになっても、メテオ接近の影響で上空に舞い上がった塵芥で空はいつもどんよりとした灰色。すり鉢状のスラムでは温められた空気が底辺に溜まり気温は高く、その空気も澄んでいるとは言い難い。なんとなく身体にその塵がまとわりついてくるような、視界さえ遮られるほど埃で白い。そこかしこで行われている復興作業がそれに拍車を掛けている。古い建物を解体する時のあの嫌な臭い、壊れたビルの残骸を掘り起こす音、家を失った住人のせめて夜をしのごうとバラック小屋を建てるのに間断なく響く金属と金属の擦れ合う音が、外を走り回る子供たちの声と混じってスラムを満たす。
ベランダから下を見下ろし、顔見知りの子供が自分の名前を呼ぶのに応えていたザックスは、がたん、と洗濯機の止まる音に、子供に手を振って部屋に戻った。
シーツ洗ったから中に干していいか?と戻りぎわに恋人に尋ねると、本日仕事の依頼がなくて手持ちぶさたでソファに座って雑誌を読んでいた何でも屋の店主は、遠慮なしに顔を歪めて不快そうにしたが、文句を言うことまではしなかった。
外に洗濯物なんて干そうものなら、洗濯する前の方が綺麗だったんじゃないかと言うくらい煤汚れるのは、さすがのクラウドも心得ている。最近ベランダの裏の家が解体作業をしているから尚更、この前滅多に家事なんてしないクラウドが、うっかりそれを忘れて外に干したら、洗濯物に嫌な臭いと大きな黒光りする例の奴が付いてきて閉口した。
なんでわざわざ俺がいる時に洗うんだよ、と読んでいた雑誌を一旦丸め、捨て台詞を吐きながら、洗濯物に場所を明け渡すため台所のカウンターに身を移したクラウドに、夜に誰かさんが汚したからだろと返してやる。
マリンが遊びに来た時のために置いてあるプラスチックのコップが、抗議の言葉の代わりにザックスの頭目がけて飛んできて、辛うじてそれは受けとめた。
手当たり次第物投げるな、と諫め目を転じたクラウドの前にはフォーク他戦々恐々たる凶器が並んでいて、ザックスはぞっとした。一応考えて投げたんだとクラウドは雑誌に目を落としたままさらっと口にする。涼しげな顔と台詞のギャップがまた怖い。
逃げるように洗濯機に向かい、シーツを取り出して部屋に吊られた物干し用のビニールロープに引っ掛けるのだが、このビニールロープもここ最近片付けられる事もない。クラウドが常邪魔だと文句を付けるそれは、スラムで暮らしていくための生活必需品でザックスは甚く重宝しているのだが、それに引っ掛かる度にクラウドはまるで親の仇みたいに忌々しそうに眉を寄せる。いい加減毎日同じ場所にあるんだから慣れろよと内心ザックスは思うが、突っ込まないのは優しさだ。
先客のパンツやらシャツやらを端に避けロープにシーツを掛けると、まるで部屋を分断するカーテンの様になってしまって、途端に狭い部屋が更に狭くなった。
「外に干せたらいいんだけどな」
と、一回や二回被害を被ったくらいのクラウドでさえそんな事を言うんだから、毎日家に居て濡れた洗濯物の湿っぽさと同居しているザックスはもっと切実。
生まれからして熱帯の、生来のお日さま好きのザックスは、出来ることなら洗濯物もシーツもたまにはベッドのマットレスも、太陽の下で温めてやりたいのだが、スラムではそれも叶わない。せめてミディールやらアイシクルエリアあたりまでいけば、ここよりずっと晴れているのだが。
「引っ越したいなぁ…」
と口癖の様につぶやいてみても、クラウドの営む何でも屋も最近やっと軌道にのってきた頃、リーブや旧知の仲間以外からも依頼が来るようになってはきて、日々の生活に困窮する程ではないが、しかしお世辞にも余裕があるとは、とても。
「金ないだろ」
で却下されるのがオチだ。
しかもザックス。あの神羅屋敷からの決死の逃亡で、文字通り死にかけた挙句、クラウドと再会するまで長い間仮死状態にあったおかげで、往年の様な身体の自由がきかない。外に出る事の多い家主のクラウドにかわって家を守り家事に勤しみ、たまに子守りのバイトとか屋根の修理とかティファの店の買い出しとか簡単な依頼(と言うほど出もないお手伝い)はこなすが、出来ることはその程度。報酬なんて子供のお駄賃、雀の涙程にしかならない。
しかし、かつての鬼神と称された動きは望めないにしても、常人よりはよっぽど強いし、何よりソルジャー時代に得たノウハウ――戦闘やサバイバル技術、戦略等に限らず、もっと後ろ暗い事も含めて――ある。
実際、そんな裏の仕事で喰っているらしい元ソルジャーの噂も聞くし、どこで聞き付けたのか正真正銘元ソルジャーのザックスに、暗殺だのなんだの、物騒な依頼を法外な報酬で持ちかけてくる輩も少なからずいた。
生活が苦しかった頃だ。金になるからと遠方の仕事ばかり引き受け、駆けずり回っていたクラウドを隣で見ていたのもある。何かせめて手伝ってやれればと思い、そんな依頼をこっそり引き受けようかと思った事も度々。
「…ザックス、表情穏やかになったよな」
そんなザックスの心を見透かしていたのか、普段鈍感なくせにどうしてこんな時だけ鋭いのか、いや、もしかしたらそんな意図はなくて、勝手なザックス勘繰りだったのかも知れないのだが。夜に裸で抱き合って指を絡めて、腕枕は肩が凝るとか腕枕をされている側の癖に文句を言いながら、とても幸せそうなクラウドが突然そんな事を言って、ザックスはちょっと驚いて目を細めた。
「昔は穏やかじゃなかった?」
「なんかもっと…切羽詰まってた。ソルジャーってきついんだなってずっと思ってた」
その割には労ってくれた事なかったよな、なんて思いながら、クラウドの髪を触っていたら、信じてないだろと手を叩かれた。なんだってそんな鋭い。
晧いぼんやりとした月明かりだけが光源の夜の中で、太陽の下のようにお互いの姿ははっきり見えないのに、服を一枚脱いで抱き合っただけで、昼間よりよっぽどクラウドに見られている気になる。
「ソルジャー専用の高級マンションじゃないし、ベッドも狭いしお金もないけど」
でも、とクラウドが笑う顔がとても綺麗で、ザックスは見惚れた。
「俺は幸せだよ」
……なんて。
普段穀潰しだのタダ飯喰らいだの散々言うくせに、こんな時だけそんな顔でそややななんな優しい声で言うのは反則じゃないのか。どこでそんな飴と鞭の使い訳を覚えてきたのか。
しかしそれが本心であろうとなかろうと、そんな顔でそんな事を言われて、(今まで自分もクラウドも数えきれない位人を殺してきたのに、何を今更と言われようと)もう昔のように人殺しやら暗殺やらそんな仕事の傍らに、何もない顔をしてクラウドの隣にいれる自信なんてなかったのでそんな依頼はすべて断った。
おかげで毎日かつかつの、全く好転しない財布事情。
引っ越したいというザックスの願いも宙に浮いたままだ。
何も無理に怪しげな依頼を受ける必要はないし、やる気になれば新聞配達でも土方のバイトでも仕事はあるのだが、クラウドがあまりいい顔をしない。おまえは家で飯作ってろと亭主関白ばりばりの台詞に、故郷の頭の固い父親の影を見て一瞬気が遠くなった。
せめてザックスにも、クラウドの様にバイクの類の足になるものがあれば少しは仕事になるのだが、神羅の崩壊でバイクの供給がなくて値段が高騰しているし、維持費の方が金がかかるとクラウドに却下された。そのバカ高い維持費のかかるバイクに乗っているのは誰だ、と言いたいが稼いでるのもクラウド本人だからそんな事ザックスに言う資格はない。
クラウドの横に腰掛け、手元を覗き込む。
クラウドが捲る古い音楽雑誌は、確かだいぶ前にウォールマーケットの古雑誌屋で見つけたもので、読み込まれた跡の見える折り目やらメモ代わりに使ったのか×日17時、とだいぶ前の日付の走り書きがあったりして面白い。
「見られてたら読みにくい」
「あ、すまん」
「する事何もないのかよ」と言われ、いつもなら本当は部屋の掃除をする時間なのだがクラウドが邪魔だから、なんて口が裂けても言えないのでとりあえずうんと言う。
こんなに好きなのにずっと一緒にいるのって大変なんだなぁと思う。そんな事四六時中一緒にいられる様になったから思えるのであって、贅沢極まりない。そういや昔はお互い(特にソルジャーやってた自分が)忙しくて一緒にいたいと言いながら、遠征やら異動やらで一緒にいた期間は案外短く、ポットの中で魔晄塗れにになって並んでた時間が実際一番長かったなんて皮肉なもんだった。
なんもする事ないんだったら買い物にでも行くかと言われ、しかし買い物は昨日の内に纏めて済ましていた旨を告げると、クラウドはちょっと考えて、だったら散歩しようかと言う。
いいよ、と気軽に返事をしたものの、財布も持たずふらっと立ち上がったクラウドには驚いた。
「おまえ手ぶらかよ」
「金ならおまえが持ってるだろ」
と言われてしまい、確かに財布は持っているから間違ってはいないのだがその中身はかなり淋しい。そこだけ季節が冬のよう。期待されるほど持ってないんだけどとザックスは情けない事を思いつつクラウドの後を追い掛ける。てっきりいつもの教会に向かうものだと思い込んでいたから、伍番街に続くいつもの路地に入ろうとした所で、服をひっぱられた。
「たまには別ん所行こうぜ」
え?と立ち止まったザックス、クラウドの早足は言葉通り本当に早いので、一瞬惚けた隙に距離があいてしまい、ロスした分を取り戻すのに小走りしなければならなかった。
クラウドのぴょんぴょん跳ねる後ろ髪に追い付いて、どこ行くんだよ、と問えば何も考えてないとなんとも頼もしい答えが帰ってきた。目的地がないと言う割にクラウドは散歩と言うよりどこかに向かうような足取りでずんずん先に進んでいく。
「こっちってさ」
段々路地が細くなって、道の両脇に寄せられたコンクリート片や曲がった鉄がごっちゃになった瓦礫がうず高くなってきて、さすがにザックスがクラウドに囁く。空気も心なしか他の場所より砂っぽい。
「まだ瓦礫除去おわってない区域だよな」
「うん」
「KEEP OUTって書いてあるけど?」
「責任者リーブだから大丈夫」
黄色いテープをくぐるクラウドに、そういう問題じゃなくて、危ないから入るなって事じゃないのかと言いたかったのだが、言っても仕方ないとザックスは諦めた。危ないと言っても自分とクラウドだ。瓦礫の山が倒壊したくらいじゃ怪我もしないだろうが。
いつの間に登ったのか、高く山積みになっている瓦礫の上に一人座って空を眺めていたクラウドに、
「ここ、なんかあんの?」
と尋ねると、クラウドはこのへんに、と指で丸く空を指した。
「公園があったんだけど、覚えてる?」
クラウドの指の先、どんよりと重いスラムの空に目をやっていたザックスは、ああ、と合点して頷いた。ちょうど三番街のあたりだ。
まだプレートの上にすんでいた頃、仕事が終わって待ち合わせして、酒を飲んだ帰りにぶらぶら二人で歩いた公園があった。
懐かしいな、と呟くと、クラウドがザックスを振り返ってちょっと笑った。
「最初にあんたに告られた場所なんだけど」
「………は?」
「覚えてないと思うよ。アンタ泥酔してたし。すげぇでかい声で叫んでた」
くすくすと笑って、アンタ見た目の割にそんな強くないのにとクラウドが笑う。忘れていた甘酸っぱい過去を暴かれたザックスは、憮然としてクラウドを見上げた。雲に隠れた太陽は、姿は見えないのに燦々と地上を照らしていて、ザックスは目が眩んだ。
「ザックス」
「ん?」
「好きだよ」
クラウドの言葉に、嬉しいとかよりまず、突然何言いだすんだ、と思ってザックスは首をかしげた。
「あんた最近腐ってるみたいだったから」
よっと、ザックスの身長程の高さから飛び降りて着地する。
腐ってるつもりはなかったんだけどな、と頭を掻く。そうか?とクラウドは笑った。
以前の仕事のことと言い、そんなに自分はわかりやすいだろうかとザックスは胸中呟く。そんな表情に出していたつもりもない、寧ろクラウドの方が感情の起伏を素直に表に出す方だ。そう、昔はどちらかと言えば逆だったのに。
「俺もちょっと初心に帰ってみたんだけど」
どう?と微笑まれて、初心どころか、とザックスは内心舌を巻く。いつのまにかこんな簡単に手綱を取られる様になってしまったのか。
溜息を吐くのに息を吸い込んだ拍子に、埃が喉の奥に張りついてザックスが少しむせたのを、クラウドが笑いながら背中をさすり、そのままザックスの腰に腕を回して背中に頭をくっつける。
あの教会じゃこんなことできないし、と言うクラウドの体温を背中に感じて、ザックスはわずかに頬を染め腰に回ったクラウドの手を握り返した。