――ミッドガルスラム五番街に住むケーナ夫人は、もう三十年以上も前、まだ神羅があれほど大きくなく神羅製作所との看板を抱えた中小企業であった頃から、貧しいながら夫と二人肩よせあって小さな雑貨屋をしながら、スラムで生きてきた。いつしか家族が一人増えて生活がちょっと苦しくなっても幸せはそれを補って余りあるくらい。子供が大きくなって手を離れて、あと何年生きていられるかしら、なんて夫婦で笑いながら話していた矢先にメテオが空に現れた。夫は壊れた柱の下敷きになり、神羅に就職してプレートの上にいた息子の安否はようとして知れず、営んでいた雑貨屋も家もなにもかも失って、失意の底にいた。
幸い古くからの友人の伝手で当面の寝床は見つかったが、生きる気力ばかりは他人に頼ることは出来ない。
死のうと思ったのは一度や二度ではない。あの時、あのメテオの夜、ミッドガルを満たした碧の光がライフストリームであるとしたら、夫も息子もあれに乗っていってしまったのだろうか。それなら自分も、と思い詰めていたのを友人に諭された。
「わかるわ、気持ちは」
夫人の手を握りながら彼女は言う。
「私だって、たった一人の家族をなくしてしまったから」
「……エルミナ」
「でもだからこそ私は、あなただって失いたくないの」
気っ風がよく災厄のあとも気丈に、落ち込んで何も出来なかった自分の世話をしてくれた彼女の瞳は少し潤んでいた。一人娘を亡くして、今は娘が好きだった花の世話をしている彼女も、考えみれば自分と同じ天涯孤独の身。自分が死ぬことで、これ以上彼女を苦しめてはいけないと思った。
少しずつで良い、生きる気力を呼び戻そうと、彼女に勧められ園芸を始めた。彼女の家の庭は、まだスラムをプレートが塞いでいた時から花の咲く不思議な場所だった。外は物騒だがここなら、と庭の一角を借りて種を撒いた。
まだ小さな芽ではあったがすぐにぴょこんと顔を出した緑の命を見るのが楽しみで楽しみで、いつもより朝早くに目が覚めてしまったその日も、朝の散歩がてらに芽の様子を見に行こうと思い立った。
「……あら?」
庭に誰か立っている。こんな朝早く、ちょうど自分が種を撒いたあたり。誰かしら、とケーナ夫人は首をかしる。遠目で見た背格好から、男性と言うのはわかったが、この庭の持ち主、エルミナの夫は昔ウータイに行ったっきり帰ってきていない。自分の夫と息子もこの世にはいない。では、誰だ。鬼か悪魔か死神か、いやそんなのならまだ良い。この世で一番怖いのは人間だ。物取り強盗の類か。
近寄らずともわかるくらい、その男は何か大きな袋を持っている。得体の知れない影は不気味だったが、何故か恐怖は感じなかった。逃げなければいけない気はしない。昔雑貨屋を開いていたころ、一度店に入った物取りと鉢合わせた事があるが、その時感じた竦むような恐ろしさはなかった。一歩影に近づいた。だぁれ、と誰何の声を掛ける。
夫人の声に、男がゆっくり振り返った。



不思議な体験をした。
メテオの影響からやっと世界が立ち直りかけていた頃だ。甚大な被害を受け潰滅したミッドガルもその例外でなく、リーブ・トゥエスティを中心としたWROがミッドガル復興運動の指麾を執るべく立ち上がり、死の街と呼ばれ復興は不可能と思われた街に遅蒔きながら明るい兆しが見えたそんな折、大きな麻袋を持った不気味な男がスラムに出没するらしいと、まことしやかな噂がたった。
リーブの要請により、被害の比較的軽微な地域からミッドガル復興協力の為に人の流入が始まった頃だ。
余所者が多くなって街の雰囲気が変わっていた事に、人々が過敏に反応していたのかもしれない。
はじめはただ、麻袋を持った男が早朝に壊れたビルの跡地に立っていたのが、ふと気付けば消えていたとか、かつて公園だった空き地にて最近ミッドガルでも咲くようになった花を眺めていたとか、そんな無害な話だったのだが、それがいつしか変貌した。
その男の持っていた大きな麻袋に血が付いていた、とか、袋から人の腕が出ていた、とか、物騒な噂が人々の口に上りはじめる。
いくら復興が始まったといっても、未だ殺伐とした空気がスラムを覆っていて、そんな中で人々の不安を体現したかの様な噂が跳梁してもなんら不思議ではない。まだスラムのあちこちにバラック小屋やらプレートの残骸やらがあって、ミッドガル全体が廃墟の様相を呈していたのも、そんな噂が広まるのに一役買ったのだろう。
噂だけが独り歩きして、では実際そんな男を見た人間がいるのかと言うと、そういう者もいない。
肝心の袋を持った男と言うのも、毛むくじゃらな大男らしいと言う者もいれば、いやそうじゃない、女と見紛うばかりの優男だとまるで見てきた様に言う者もいる。そしてそれは全て噂の域を出ない。挙げ句の果てにそれは人間なんかじゃない、幽霊だと言うものさえ出てくる始末。
大きな荷物、それは復興支援のためミッドガルにやってくる人々にみられる顕著な特徴であるので、やはりミッドガル住民の心の根底にある余所者への拒絶意識が生み出したものか。
春の終わりに流れだした噂は、いつのまにか、その麻袋を持った男は誰かに依頼されて死体を運んでいるとか、あまつさえその男が人を殺しているのを見たとかいうところまで発展していたが、そもそも人殺しにしては話だけが先走って被害者がいない。
夏も近づいてきた時期、もはや噂と言うより都市伝説、一種の怪談みたいなノリでその話が広がっていた。

ミッドガルにて復興活動を手伝う傍ら、何でも屋を営んでいたクラウドも、日々大きくなるその噂を耳には挟んでいた。
ただの噂か、それとも噂通り本当に、クラウドも預かり知らぬスラムの闇に紛れ蛮行を働くものがいるのか。
五番街の教会で、マリンと一緒に花に水をやりながらも、クラウドは常時外の気配には神経を尖らせている。念のため、だ。
何でも屋、かつて自分を庇って死んだ男の意思を継いで開いた店は、お世辞にも繁盛しているとは言い難い。むしろ最近はリーブの復興活動の手伝いの方がメインになっている。その合間の数少ない何でも屋の仕事が、昼間のマリンの護衛なのだからクラウドの困窮ぶりも知れよう。
割れたステンドグラスの間から届く太陽の光が少し陰ってきて、のどかな時間の経過をクラウドに告げた。確かに楽ではないが、今までの波瀾万丈な人生を思えば、こんな生活も悪くないと暮らしぶりは質素ながらクラウドは思う。
「マリン、そろそろ、遅くならないうちに帰るぞ」
「はーい」
ティファにお土産、と籠にいっぱいの花を摘んでいるマリンに呼び掛けると、とぱっと顔を上げて立ち上がった。
「そのへん、穴あるからな」
古い建物故に、残った板張りの部分にもそこらじゅう穴があいている。ちょうどマリンが立ち上がったその足元の空洞が目に入って、思わず声を掛ける。
「知ってますー」
と、マリンは何をいまさらと頬を膨らませ、穴を器用に避けて、クラウドのそばに駆け寄った。老朽化した床が軋み、走ると危ないぞ、とクラウドが笑う。クラウドに手をひかれたマリンは、教会の入り口まで来た所で振り返り、ばいばいお花のおねえちゃん、と光の当たる花畑に向かって手を振った。クラウドも同じように立ち止まって花畑に目をやる。
「……え?」
そこで信じられないものを見た。一瞬前までマリンがいた花畑の辺りに人影があった。何か大きな荷物を持っている。
勿論さっきまで、クラウドとマリンの他にこの教会に人の気配はなかったはずだ。クラウドは瞠瞠としてその場に立ちすくむ。それが最近スラムで噂される、大きな袋を持った男だと気付くのに少し時間がかかって、クラウドは自分が一瞬混乱していた事を悟った。その人影は、クラウドやマリンの知らぬ間に入り込んだという風でもない。マリンが歩いても軋む床、その人影は二メートル近い大男で、普通の人間ならクラウドに音も気配もなくここに入り込むことなど。……そもそも半分身体が透けて、輪廓すら劃然としない人間がいるなら、の話だが。
影が揺らいだ。ぼんやりとしたその影が、確かにほほえんだのがわかった。マリンもそれに気付いたのか、クラウドの後ろから少し頭を出した。
「……父ちゃん?」
足にしがみついていたマリンが呆然とつぶやく。クラウドは言われて気付いた。確かにその人影は、今は遠くコスモエリアの空の下穴を掘っているであろうバレットの背格好、雰囲気によく似ていた。刈り込まれた頭に、浅黒い肌、そして何よりも目を引くのが、おそらく炭鉱で鍛えられたのだろう、筋骨隆々たる二の腕に連なる無機質なギミックアーム、しかしそれが装着されているのは右腕ではなく左腕だった。
「父ちゃんなの?」
マリンの言葉を否定しようとして――しかしそれはある意味で正しいとクラウドは首を振った。
確かに彼は――クラウドの認識が正しければ、だが――それはマリンの父親だった。コレルプリズンでバレットに敗れ、崖下に身を投げた。ダイン、と叫ぶバレットの声が脳裏に閃く。そうだ、そんな名だ。
マリンの声に答えるかの様に、その人影は不安定にゆらゆらと揺れて、やがて割れた窓から差し込む橙の光に溶けていった。


「……クラウドさんも見ましたか」
セブンスヘブンの隅のカウンターが、クラウドの指定席。マリンの子守り――もとい護衛(と言うとその仰々しさにクラウドは思わず失笑してしまうのだが)の合間に、WRO関連の仕事の打ち合わせをリーブとする事がある。いつもはリーブが忙しいためクラウドがWROの本部にまで赴くのだが、この日は、僕もたまには飲みたいんですとリーブ自らセブンスヘブンを打ち合わせ場所に指定してきた。
飲みたい言うたかて僕飲まれへんのですけど、とすでに一杯目のビールで目尻を赤く染めたリーブは、ティファからウーロン茶を受け取ってアルコールを薄めている。
最近のスラムの様子を報告するのもクラウドの役目で、どこで喧嘩があっただのどこの店がもめているらしいだの、そんな事を話すついでに先日の不思議な人影の事も口にした。一笑に付されるかと思っていたクラウドは、リーブの反応に目を丸くする。
「俺もって、他にも目撃者がいるのか?」
「最近噂になってたでしょ。大きな袋持った人影が出るゆうて……あ、ティファさん、なんか軽くつまめるもん貰っていいですか?できたらこう、胃に優しい感じの……」
「はいはい」
「また胃悪くしてんのか」
相変わらず苦労性だな、と言うとリーブは大袈裟に溜め息を吐く。
「もうストレス溜まりまくりで……いつか穴開くんちゃうかと思ってるんですけどね。あかんわ何の話やったか…そう、噂ですよ噂。あれのお陰で支援者減ってもう…ただでさえ人不足やのに」
ウーロン茶の入ったグラスをからから鳴らせて、リーブが言う。酔っているせいかいつもより訛りがきつくて、クラウドは話を聞くのに少し労力を要した。
「出る、んですよ。噂のあれが。特に五番街の辺りなんですけど…あの辺、エアリスさんの家もあったでしょ。クラウドさんが見たのも教会なんですよね」
つまみの用意をしていたティファが、ちら、と不安そうにクラウドを見た。それには気付かないふりをして、リーブの言葉に頷いて応える。
「確かにあれは、俺の見間違えじゃなければダインだった。左腕にギミックアームもしてたし…」
「ダイン……バレットさんの親友やった人ですよね。はぁ、じゃあ差し詰め、マリンちゃんにお別れでも言いに来たんですかね」
何事もないようなリーブの言葉に、クラウドとティファが驚き目を見張る。冷静な口調の割りに言っている事が現実離れしすぎていて、実は泥酔しているんじゃないかと訝しんだが、ちゃいますよ、とリーブが否定する。
「さすがの僕でもビール一杯でつぶれませんよ。言うたでしょ、噂になってるって……何人か見た人いるんですよ。それぞれ見たもんは違うんですけど」
「……例えば?」
「死んだ旦那さんが若い頃の姿で出てきはったらしいです。エルミナさん、エアリスさんのお母さんですね、のご友人が庭で朝早くに見たゆうて連絡くれはったんですよ」
エアリスの名前のところで、クラウドとティファがぴく、と反応して、そしてリーブ自身も少し言い淀んだが、言葉を詰まらせはしなかった。
「神羅が本社建てる時にミッドガル選んだんも、ジュノンにそこそこ近い大きいって都市って言うのもあったんですけど、ライフストリームの噴出ポイントがようさん観測されたせいもあるんですよ。その影響もあるんでしょうね、割と昔からこの辺、そーゆうの多くて」
「どういう?」
「お化けがようけ見えるって」
お化けって言い方はおかしいかもしれませんけど、とリーブは付け加えて、ティファから出されたオムレツをフォークで突く。一口口に運んで咀嚼した後、思念体みたいなもんですかねと言い直す。リーブの言葉に、クラウドは思わずその手元を凝視した。クラウドの関心がオムレツに言っていると勘違いしたらしいリーブに、クラウドさんもいります?と言われてしまい、首を降る。
「僕は知らんかったんですけど、この辺に昔から住んでる人やったらよう知ってはる昔話みたいです。ミセス・ケーナ、さっきゆってた死んだ旦那さん見た人ですけど、その人が教えてくれはりました」
オムレツを小さく切ってホワイトソースに絡める。柔らかい卵がつぶれて、断面から黄色い汁が滲み出た。
「生前に良い行いをした人間は、死ぬときに神様に袋を借りるんだそうです。元々は聖人が持っていた袋で、悪い物を閉じ込めて人を助けるとかいう、土着の信仰だか民話が変化したものらしいんですけど」
染み出た半熟の卵が、白いソースに溶けて境界が曖昧になっていく様子を、クラウドはじっと見ていた。その光景は象徴的すぎて、頭にあの消えていった男の顔が浮かび、それははっきりと見えなかったのに確かに笑っていた。目の前がちかちかする。酔っているのだろうか、と思った。
「そうやって借りた袋に迎えに来た死神を閉じ込めて、愛する人に別れを言いに行くだけの時間の猶予を貰うんですよ」
所詮言い伝えですけどね、とリーブは笑う。僕も割とそういうロマンチックな事は信じるんですけど、あいにく僕の所には別れを言いに来てくれなかったんですよ、母も妻も、と自嘲気味に笑うのを、クラウドはどこか遠くで聞いていた。
「あなた、結婚してたの?」
「ゆうてませんでした?…いや二人ともこの前の災厄で死んでしもたんですけど。僕ずっと会社詰めてたし、結局なんもしてあげられへんかったから」
「初耳よ。ねぇ、クラウド」
ティファに同意を求められて曖昧に頷いた。リーブがウーロン茶に口を付ける。
「まだ死んで間ぁないから、星に還らんとうろうろしてると思うんですよ。あー…僕も、二匹目のドジョウ狙うてみよかな」
しんみりした雰囲気でリーブが言うのに、クラウドは会えたらいいなと呟いた。
……会えたらいいな、ともう一度口のなかで反芻する。
ライフストリームの噴出点によく現れるらしいんですよ、とリーブが話すのを聞きながら、目を閉じれば、親友の顔が脳裏に浮かんだ。死者が現れるなんて、まるで夢のような話だが――我ながら結構女々しい。もしかしたら会えるかもなんて、一瞬でも期待してしまうあたりがとても。
「クラウド?」
心配そうなティファの声で我に返り、なに?と出来るだけ平静を装って答えた。
会える保証なんてどこにもない。
「愛する人に別れを」なんて、随分自惚れているのかも知れない。あれだけ迷惑を掛けておいて、彼が死んだ時の記憶すら曖昧で、その最期の瞬間まで、昔と同じように彼が自分を愛してくれていたかも分からないのに。
もしかしたらそれ以前に、もうとっくに星に還っているかもしれないのに。
明日になったら、教会に行ってみようとクラウドは決めた。あのダインらしい人影が立っていた場所の下、あそこがライフストリームの噴出点だとするなら――。
我ながら本当に女々しいと思う。自覚はあるが、会えるものなら会いたいと思ってしまったのだから仕方ない。
二匹目のドジョウなぁ、とクラウドは口元を歪めて、グラスを傾けた。